こんにちは。くまの(Kumano@Rpgmg)です。
善についてなんとなくイメージが出来ても、偽物の善=偽善というと分かりにくい所があります。
- 善に見返りを求めた時点で偽善だという考え方があります
- やらない善よりやる偽善という意見もあります
私個人の意見としては、善に対し偽物か本物を誰がどうやって決められるのかと思っていますので、基本的に偽善はないという考え方です。
同時に、本当の優しさでも見返りは求めるのと同じように、善行に見返りは求めるものだとも考えています。
行動に対し人「良い結果」という目安がなければ、何を基準に行いの善い・悪いを判断するのかも分かりません。
「偽善者とはどんな人」という記事タイトルなのに「偽善がない」とは何事か?と思われるでしょうが、「偽善」という概念自体が苦しみを生むと考えています。
「偽善者」と自分や人を非難することで運が悪くなります。
今回の記事では、偽善者と言われる(勘違いされる)事柄について、3つの視点から書いていきます。
なぜ「偽善」という考えが苦しみを生むのか?
なぜ偽善という考え方が苦しみを生むのかですが
- 「善いこと」なのに「悪いこと」だと(他者や自分を)責める矛盾
- 人間にとって必要なものを否定している
- 徳が低くなるので運が悪くなる
という理由があげられます。
「善いこと」なのに「悪いこと」だと(他者や自分を)責める矛盾
偽善者、偽善行為、という言葉は基本的に悪口として使われます。偽善=悪いという認識です。
善いことをしているにも関わらず、心がけが納得できないという理由で悪いこと扱いになれば心が混乱します。
人の心がけなどは分からないのに、そんなこと思ってないのにと決めつけて悪く思います。
もしくは自分が善いことをしたのに、心がけが悪いと自責します。
善いことに対しわざわざ悪く言う必要はありません。わざわざ苦しみを増やしているのと同じです。
人間にとって必要なものを否定している
自分が人の役に立っている、自分は人にとって重要な役割があるという気持ちはメンタルに良い影響を与えます。
自分は役立たずで人に感謝されるような立場ではないという信念を持っているなら、確実にその人の心は病みます。
大げさだと思われるかもしれませんが、「偽善者」と自分や人を非難している場合、このような気持ちが含まれているのではないでしょうか?
これではまるで、ヤングケアラーの子どもに毒親が「感謝が足りない」「心から喜んで手伝いが出来ないのはお前の心根が腐っている証拠だ」と責め立てるのと同じようなものです。
「気持ちよく家の用事が出来ないから何もやっていないのと一緒の役立たず」と言うのと「心がけが悪いからただの偽善者」という評価にどれだけの違いがあるのでしょうか?
徳が低くなるので運が悪くなる
- 辛そうにしている人に席を譲った
- 店で店員さんにお礼を言った
- 落ちているゴミを拾ってゴミ箱に捨てた
このようなちょっとした行為にも「偽善者」と文句を言う人がいます。偽善者とまでは言わなくても「いい人ぶっている」などです。
なぜいい人ぶっていると思うかですが、本当に心の底からその行動を望んでやったのか?人の評価を求めているからではないのか?という理屈のようです。
徳を積めば運が良くなります。徳が低ければカルマが発動し運が悪くなります。
まず偽善者という悪口自体が徳とは縁遠いものです。
善い行いから遠ざかるので、徳を積む機会も減ります。
他人を偽善者だと思う理由
他の人の善行が自分にとって都合が悪い、脅威に感じる時に「偽善者」と非難さすることがあります。
- 良い人ぶる
- いい子ぶりっ子
- (悪い意味での)あざといなど
と言う場合もあります。
直接的に都合か悪いとき
職場で自分はそこそこ適当に仕事をしている状態で、他の人が熱心に仕事に取り組んでいれば比較されるかもしれないと脅威に感じます。
自分がやらなかった親切を他の人がしているのを見ると、自分がまるで気が利のない人になったように思えます。
その時に、あの人は褒められたいから、いい人アピールしたいから善行をしているんだと理由付けをして自分の心を守ろうとする場合があります。
「やましい気持ちで善い行いをするあいつよりも、何もしない自分のほうが心のキレイな善人だ」という理屈で、自分は劣っていないんだと自分で安心させる感じです。
これも1つの防衛機制です。
直接には都合が悪くない時
自分に直接関係なくても偽善者だと腹立たしく思う時があります。
テレビやネットなどでボランティア活動をしているのを見た時、志が高い行動をしている人を知った時、困っている人を無償で助けているのを聞いた時などです。
知らない人が知らない場所で善いことをしているだけなので実際に自分の脅威にはなりません。
それでも悪く思わずにはいられない、悪く思って自分を守らなければ安心出来ないという不思議な状態です。
これはゼロサム思考からきています。
ゼロサム思考とは、誰かが得をすれば自分は損をするという信念です。
このゼロサム思考を善行に当てはめれば、誰かが善いことをすれば自動的に自分が悪人になります。
なので、偽善者はやましい心で善いことをして人を騙しているんだ、だから善いことをしているあいつが悪人で自分は善人だ。
という理屈で自分を守ります。
自分を偽善者だと思う理由
例えば、職場で仕事が溜まって困っている同僚を見かけて手伝ったとします。
その時に、手伝いつつも「面倒だな」と思う気持ちもあった場合、自分は偽善者なのではないかと不安になります。
本心は面倒だと思っているのにいい人と思われたくて手伝ったのかもしれない、そんな自分は偽善者かもしれない、と思うようです。
これは、心の仕組みを知らないだけのただの勘違いです。
意外かもしれませんが、人の心には本音なんてありません。
人の心はそんなに単純ではないので。1つの事柄に対し感情が1つということはありません。
いくつかの感情の内、特に強い気持ちの中の、実際にはやらなかった、言わなかったものを本音と思います。
例を出します。
寒い冬に早起きする用事かあったとき、2つの大きな気持ちがあったとします。
- 早く起きて用事をしなければいけない
- 寒いので布団から出たくない
その時に、
パターン1:寒いのを我慢して起きて用事をすれば
「本当は寝ていたかったのに起きて用事をした」思います。
つまり「2.寒いので布団から出たくない」を自分の本音と思います
パターン2:早起きせずに寝ていた場合は
「本当は早く起きて用事をしたかったんだ」と思います。そんなのは言い訳と言われても「本当に起きたかったんだって!」と思います。
「1.早く起きて用事をしなければいけない」が本音だと心が判断しているのです。
これと同じように。善行をしたときはしたくなかった気持ちのほうを本心と思っているだけで、自分の本心と違うことをしたわけではありません。
徳の法則から偽善を考えると
いわゆる善と偽善は
- 善=陰徳
- 偽善=陽徳
に分類されると思われます。
徳には陰徳と陽徳があります。
陽徳は人に知られる善い行いです。人に知られるので褒められたり感謝されます。
一方陰徳は人知れず行う善い行いです。
人からの感謝を要求せずただ善い行いをするから、陰徳のほうが立派だと言われます。
見えない世界のお金的な役割もある「徳」が多く貯まるのは陽徳よりも陰徳の方です。
陽徳は人に知られるので感謝されます。感謝されるのは嬉しいことなのでその分徳を消費するからです。
つまり、陰徳は徳に対し欲深いとも言い換えられます。
善いことをしてもらったから感謝をするというのも善い行いです。スピリチュアルの世界でも感謝は良いこととされます。感謝の世界の住人になるようにとも言われるようです。
陰徳は、人から感謝の機会を奪い自分の徳の取り分を多くしている行為でもあります。
だからといって陰徳が悪いと言っているのではなく、陰徳・陽徳の両方に優れた面があるということです。
陽徳のメリットは人に感謝の機会を与え徳を積む手伝いが出来るという点で、これは陰徳にはありません。
実際の偽善者とは
- 偽の善い行いをする
- 善い行いをすることで人を騙す
- 騙した人に迷惑や損害を与える
これが実際の意味での偽善者が行う偽善行為ではないでしょうか?
これに当てはまるとすれば詐欺師です。
本来ならこれぐらいのことをしてはじめて「偽善者」と非難されるのだと思います。
人の寂しいという気持ちにつけ込み、まるで家族や友人のように接し困った時には親身に相談にのるなどして仲良くなり、大金を借りたまま逃げるなどです。
それは単なる犯罪者では?と思うかもしれません。
目的は詐欺や犯罪だからこそ偽の善行をして騙しています。これは明らかな偽善です。
まとめ
- 他人が偽善者に見える時は、人の善行が自分にとって脅威になっている
- 自分が偽善者に思う時は、善行とは違う感情を本音と勘違いしている
- 徳の法則では「善行=陰徳」「偽善=陽徳」
- 実際の意味での偽善行為は実際に損害を与える詐欺師など