心のしくみがわかれば、問題解決の糸口になります。
物事はいくつかの方向性からみられます。何を起点に考えるかでも異なります。
この起点で見ればスルスルとほどけるというポイントは人によって違います。
今回の記事では、罪悪感についての解説と、縁を起点にした考え方を書きます。この考え方が糸口になるという方がいらっしゃれば嬉しく思います
罪悪感とは?
自分を責めてしまう気持ちです。何によって責めるかで大きく4つに分けて考えてみます。
- 行動したことによるもの
- 行動しなかったことによるもの
- 出来なかったことに対してのもの
- 自分の在り方に対するもの
4種類の罪悪感
1.行動したことによるもの
悪い事をしてしまった、人を傷つけるようなことをしてしまった、嘘をついてしまった、など。
2.行動しなかったことによるもの
仕事をサボってしまった、困っている人を見て見ぬフリをしてしまった、頼まれたことをやらなかった、など
3.出来なかったことに対してのもの
努力や行動、能力不足などにより、目標を達成できなかった、人に喜んでもらえなかった、など
4.自分の在り方に対するもの
自分はこんなに恵まれていいのだろうか?自分だけ得をしたのではないか? といった状況に対する罪悪感から、生まれてきてごめんなさいといった自分そのものに対するもの、など
罪悪感が強い原因は?
罪悪感が強いのには、いくつもの原因があります。
子どもの頃にそのような思考の癖をつけられた、自信がない、などです。
結局はそのような諸事情によって
罪悪感を持つことが問題の解決につながる、持つことにメリットがあるという思い込みが一番の原因ではないかと思います。その考え方に依存するほどに、罪悪感を強く持つようになります。
罪悪感を持つメリットは、罪悪感を持てば周囲が許してくれる、罪悪感を持つ自分は正しい心を持っていると思えるといった感じです。
外部からの「罪悪感」と内部からの「罪悪感」
罪悪感の原因を、外からのものか自分の内側からのものかで考えます。
外部からの「罪悪感」
人は誰かをコントロールし思い通りに動かしたい時に罪悪感を利用します。罪悪感は、心への制限をかけます。
毒親が子どもにしている例として、
「こんなにあなたの事を思っているのにどうしてわかってくれないの?」など、被害者をよそおって責めるようなものがあります。
子どもがした行為のせいで、何かがダメになったり無駄になったというような責任を押し付けてくることもあります。
子ども側は、親が間違っているとは思わないので自分が悪いと思い込みます。そして大人になってもその考え方が離れずにつらい思いをします。思考の癖として身に付いてしまうからです。
ここまでくれば「自分の存在への罪悪感」にまで発展します。呪いの首輪をはめられた様なもので、一生縁(えん)が切れません。親が死んだとしてもです。
罪悪感を植え付けてくるのは親ばかりとは限りません。
- 退職を申し出たら、今の状況が分かっているのか、他の人のことは考えられないのかと止める
- 弱者の顔をして助けることを強要し、見捨てるなんて酷いと言う
- 必要以上のことに対して「責任をとれ」と言う
- あの時は傷ついた、あなたは酷いと言い続ける
- 自分はこんなに尽くしているのに気持ちを分かってくれないと言う
など、色々なパターンがあります。
「酷い!酷い!」と言いながら、外部から人を罪悪感でコントロールしようとしています。
共通しているのは、縁(えん)を繋ぎとめようとしているということです。
傷つける酷い人ならば離れれば良いし、他の人のことも考えられないような従業員ならやめてくれた方が良いですよね。なのに関係を切ろうとはしません。
内部からの「罪悪感」
今からキツいことを書きますよ?
自分の内側から発生する罪悪感は、自分が優れていると思っているから起こります。ぶっちゃけ「うぬぼれ」です。
なので罪悪感を持ちやすい人は、自分はうぬぼれ屋だと内省して、持つのをやめていきましょう。
うぬぼれによる罪悪感の例を書きます。
- この職場は自分がいなければみんなが困るから辞められない
- このサークルは自分で成り立っているから全ての会に出席しなければいけない
- この人は私がいなければダメになるので離れてはいけない
実際にはそのような面もあるのかもしれません。
これは、認識が正解か間違いかという事よりも、心の制限になっているのが問題です。
1人が辞めれば困るような職場ならば、職場のシステムの問題です。自分で成り立っているサークルなら、自分の代わりになるような人を育成すれば良いわけです。
地獄のミサワが「つれーわ、必要とされすぎてつれーわ」と愚痴を言う姿を思い浮かべれば、うぬぼれだと思いますよね。
これは因果ー原因と結果をひっくり返して認識している状態です。自分が必要とされているのか不確かなので、罪悪感を使って自分を必要な存在に仕立てています。
酷い発言と思われるでしょうが、こう考えると罪悪感での制限に魅力を感じなくなるはずです。
そしてこの罪悪感も、縁(えん)を保ちたいために起きています。
職場との縁、サークルとの縁、ダメな人との縁です。
これは私の話です。
数年前ペットが病気で亡くなった時、私は強い罪悪感を持ちました。私が至らないから助けられなかったんだ、どうにかして助けられたのではないかと泣き暮らしました。
これに対するツッコミ所は2つです。
まず、獣医さんでも無理だったのにどうして私が助けられると思うんだうぬぼれるな、です。
次に、そのような罪悪感を持つことで、ペットとの縁を繋ぎ続けようとしていた点です。「私が死なせてしまったペット」という形ででも良いから関係性を持ちたかったのでこうなりました。
自分が持つ罪悪感は一見謙虚に見えるので、縁の継続に利用しやすいという罠にはまっていました。
縁と「罪悪感」をどう考えるか
外部からの罪悪感
縁(えん)や関係性は、お互いが了承して成り立ちます。
相手がいくら縁を繋ぎとめようとしても、こちらが拒否すれば関係は終わります。逆も同じで、こちらがいくら関係を繋げたくても、相手が断れば終わります。
なので縁(えん)を繋ぎたくなければ、断ってOKです。
縁を繋ぐ手段として罪悪感を利用しているので、情にうったえてきたら「縁を繋ぎ続けたいと言っているんだな」と受け取ってください。
その縁が嫌ならば、罪悪感ごと拒否すれば良いのです。
内部からの罪悪感
縁を繋ぎたいという気持ちがダメなわけではありません。
繋ぐ方法として罪悪感を使っていることが悪いのです。
私のペットの話ならば、あの子と暮らせて幸せだった、あの子が居たから悲しいことにも耐えられた、など、良い形で縁を繋ぎ続けられます。
職場なら、必要としてくれて有難いなといった感じです。
良い関係性を思いめぐらせたときに、縁の継続に魅力を感じないなら、その程度だったと分かります。
徳の上昇と罪悪感
とある特撮系の映画で「大いなる力には大いなる責任が伴う」という有名なセリフがあります。これは結構曲者な考えに思います。その制限を自分にかけろという押し付けです。
大いなる力の存在は、他者に依存と不安を与えます。
正義の味方が悪を倒し平和を守るシステムでは、正義の味方に依存しきってしまいます。悪の側に加担すればどうなるのかという不安を生じさせます。
そうならない為に、「責任」という言葉で罪悪感を持たせ縛っています。
上の記事にも書いたように、徳の高い状態で低い場に居れば、罪悪感で制限をかけられます。
他の人にはそのような事はしないのに、徳の高い人にだけ色んな事を押し付けてきます。「他の人に言っても無理なのは分かるだろう」とか「期待してたのに」など、情に訴えてきます。
これに負けて罪悪感を持つようになれば、相手からすればしめたものです。
このような場所は、ある程度勤めてカルマを解消したら、さっさと自分の徳に適した場所に移動するの方が良いのかもしれません。
まとめ
- 罪悪感は4種類
・行動したことによるもの
・行動しなかったことによるもの
・出来なかったことに対してのもの
・自分の在り方に対するもの - 外部からの罪悪感は相手が縁(えん)を思い通りに繋ぐため
- 内部からの罪悪感は自分が縁(えん)を繋ぎとめようとするため
- 縁を切るかどうか、どう縁を保つかは自分で決められる