やる気や元気を出しても行き場がなければ?

感想と感覚
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やる気がない、元気が出ないという悩みはよくわかります。

私自身、エンパスの疲れやすい状態が酷くて、半寝たきりのような状態を過ごしてきました。13年間くらい、最低限の行動も危ういレベルで、ただ横になっている日々でした。

それが今では周囲に行動力を褒められるくらいに活発になっています。

そんな寝たきりの経験をしていても、行き場のないやる気を持つことは怖いなと思っています。

今回の記事では、目的のないやる気・元気の危うさについて、私の経験も含めて書いていきます。

やる気・元気の元である「気」エネルギー

「気」エネルギーとは?

人を構成し、動かすものとして

  1. 物質
  2. 気エネルギー
  3. 情報

の、3種類があります。

元気やる気、そして気力は、2.気エネルギーを元にしています。

単純に、気エネルギーが「多い」と、やる気・元気・気力ともに「強く」なります。

  • やる気の量=気エネルギーの量
  • 元気の量=気エネルギーの量
  • 気力の量=気エネルギーの量

です。

「気」エネルギーを多くする方法

体調を良くする、体力をつけると、気エネルギーが生まれます。体調が良いと元気で活発になるのは、そのためです。

良い気エネルギーは「徳」悪い気エネルギーは「カルマ」と呼ばれます。良い気エネルギーを増やすために徳を積むことをおすすめします。

「徳」は「こんなんなんぼあってもいいですからね!」(byミルクボーイ)なので、これに関しては余っても目的がなくても困りません。

良いことが十分に起きたり、本人が何も望んでいない場合は、「ただただ幸せな気分」として消費されます。(もったいない気はしますね)

行き場のない、目的のない気エネルギーとは?

こどもが勢い余って花瓶を割ったとか、そんな粗相に対して大らかな人が「元気があって良いじゃないか、わっはっは」というシーンがありますよね。

そして「割れた花瓶」が、目的や行き場のない元気・やる気の成れの果てです。

気力を使う「目的」が必要な理由

気力が有り余るというのは、やる気が空回りといったイメージかもしれません。

気力がどんどん湧いてくるのに、目的がない、使い道がない場合はどうなるかですが、「余計な所」に使いはじめます。わざわざそこに使わなくてもと思うような場所にです。

例えば、自分ではない何かになろうと努力しはじめます。

承認欲求を満たす、自分を責める、全力で何かに依存する、という方向に使い始めてしまうことも少なくありません。

目的はないけれど、凄くなりたいとか、得をしたいとか、そのような状態では気力を使って何かをするのではなく、気エネルギーに使われて振りまわされてしまいます。

気エネルギーに振り回される状態とは?

日常生活を元氣に過ごしても余った気エネルギーは、自分のコンプレックスの克服や、足りない・苦手な物への習得へ使おうとします。

それは、マズローの欲求5段階説の、承認欲求にあたります。

承認欲求は、「認められたい」という気持ちです。他者承認欲求ならば人に認められたい欲求、自己承認欲求ならば、自分で自分を認めたい欲求になります。

承認欲求は欠乏欲求です。欠けていると思っているものなので、それを求めるエネルギーはかなり強いものになります。

ただでさえ承認欲求への渇望は強いのに、気エネルギーが多い状態で求めてしまえば、さらに渇望感は増します。

気エネルギーに憑りつかれたように、ただ狂ったように求めはじめます。

有り余る気エネルギーを手に入れた時の話

 決してマネはしないでください

ある神社の御神木が好きで、時折参拝していました。遠くから見ても、青々とした綺麗な空気が放たれているのが見えるし、そばに行けば吸い込まれるような異次元空間に見えます。

小さな神社なので、初詣やお祭りなどがなければ、土日でも社務所など無人です。呼び鈴を鳴らせば対応してくれるような、そのような規模の神社です。

そこに通い始めて数年後、偶然宮司(ぐうじ)さんが通りかかりました。御神木を眺めている私に、色々説明してくださいました。

そこで教えていただいたこと。この御神木と対になるものがあり、そちらは「悪い気を吸い取る御神木」私がいつも眺めているのは「良い気を与える御神木」なのだそうです。

ただ、この「良い気」のエネルギーは強力なので、普通に健康な人が貰ってはいけない。なので「私」は悪い気を吸い取る御神木に触れてもいいけれど、こちらの御神木には触らない方が良いと、そう言われました。

想像が付くと思いますが、「押すなよぜったい押すなよ」で、鶴の恩返しの「絶対に中を覗かないで下さい」なわけですよね。

反省しています…。

強力なパワースポットで有名な、大阪の「サムハラ神社」の、むせ返るような「気」も、参拝後外に出て5分くらいかけて「気」エネルギーを逃せば普通に対応できました。

なので、御神木から強力なものをいただいても逃せばいだろうと、そう思いました。

数年間も眺めていた御神木から気をいただけると知ったら、やはり「欲しい」と思ってしまいます。

そして次の日の早朝、神社の清掃をされている人に挨拶をしつつ御神木へ。手で触れて、グングンエネルギーが入ってくる感覚に満足していたものの、すぐに酔った感じになりました。

寝不足でカフェインの錠剤を飲んだような感じもします。

気を逃そうとしても、絡みついたような感じで出ていってくれません。

これは消費しないと無くならないタイプの気なんだと察しました。なので病気の人には良いけれど、使い道のない私には強いと、宮司さんの言葉はこういう意味だったのかと分かりました。

家に帰る道々、ひたすら悪霊退散的な念を飛ばしながら消費しました。(この方法しか人に迷惑のかからないものが思いつかなかった)

ものすごく疲れたし、何かに憑りつかれたかのように「使わずにはいられない」状態になっていたのが、自分でも怖かったです。

それ以来、宮司さんの教えを守り、良い気をくれる御神木へはご挨拶だけにしています。

まとめ

  • やる気や元気が出ることを強調していないか?
  • 単純にやる気と成功を結び付けていないか?
  • 社会的な成功や金銭を得ることと、精神(瞑想など)を結び付けていないか
  • 成長することのみを「良し」としていないか

以上の意見や考えに囚われると、やる気が出ても振り回されるかもしれません。

「みんなで強くなろう」「発達段階を進めよう」という考えは危険です。

耐久性、くじけない力、ストレスに折れずにやりぬく力、これを持っていなければいけないという前提は「病んで」さえいるし、周り周って自分の首をしめます。

やる気や元気を出しても行き場がなければ?

答え:余ったエネルギーが暴走して振り回される

徳を積むのが最強だと思っています。

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