こんにちは。くまの(Kumano@Rpgmg)です。
助けられる機会が多く頼ってばかりだと感じた時、ありがたいと思う一方で自分ってダメだなと思いがちです。
助けられてばかりだから役に立っていないというわけではなく、
- 助けられる側にも役割がある
- 徳(良いエネルギー)が積める場を作っている
ということを知れば気が楽になります。
今回の記事では、助けられる側の役割について書いていきます。世の中の一部で根強くある役割を否定する考え方も書いています。
助けられる側の役割は「感謝」
助ける側のメンタルが安定する
自分が人の役に立ったという実感には
- 自信がつく
- 人生の満足度があがる
- メンタルが健康になる
といった効果があります。
助けられる側が感謝を伝えることで相手は「役に立った」という実感が持てます。これが助けられる側の役割です。
その他にも、何かに落ち込んで「自分ってダメだなぁ」と思っている時があったとします。
そんな時に、何が得意なことを教えてほしいと頼まれてものすごく感謝されたらどうでしょうか。
自分はまだまだ捨てたものじゃないなと希望さえ湧いてきます。
人生に絶望したりやけになって自暴自棄になっているときに助けを求められ、強く感謝され続けたことをきっかけに、人生を立て直したという話も珍しいことではありません。
お互いに徳が積める
徳とは良いエネルギーのことです。
人のためになる、周囲を思いやる、自分を大切にするなど良い心がけや言動で貯まります。貯めた徳を使うことで良いことが起こります。
カルマとは悪いエネルギーのことです。
人に迷惑をかける、人や自分を傷つける、強い怒りを持つ等で溜まっていきます。悪いことが起こればカルマは消費されます。
人を助けるような行いは徳を積めます。
助けてもらうことで、徳を積む場を作っています。
助けてもらいながらも徳を貯める方法は、素直に助けてもらい思いっきり感謝することです。
助けられる側の役割を否定する考え方
助けても感謝を期待してはいけない?
「偽善者」
「本当の優しさ」
の起点で考えると、感謝を求めてはいけないようなことを言われます。
偽善者についてなら、感謝されたいから助けるなんて偽りの善意だ、そんなのは偽善行為だと言われます。
偽善者という考え方は苦しみを生む原因にもなるので気になる方は下の記事を読んでください。
本当の優しさは見返りを求めない、感謝されたいから優しくするのは本当の優しさではないと言われます。
感謝される=見返り、という理屈です。
ただ喜んでもらいたい、ただ幸せになって欲しい、も見返りを求めています。
相手が喜ぶ=見返り、相手が幸せになる=見返り、ですよね。
この見返りを求めてはいけないなら、相手が悲しもうが不幸になろうが優しくし続けることになります。それが本当の優しさなのでしょうか?
優しさを持つ自分でありたい、も見返りを求めています。
自分が納得できる自分でありたいという自己承認欲求を満たすのが見返りです。
優しさは見返りを求めるものです。問題なのは実際に求めている見返りと自覚している見返りが違う時なだけです。
助けてもらっても感謝する必要はない?
助けることが出来る立場の人は恵まれてるのだから、その恵まれた立場でいられること自体に感謝するべきだ、
助けられる側の自分は悪い偶然が重なっただけなので感謝を求められるのはおかしい。
弱者は救われるべきだの可否についてや、弱者とは何かの定義について書いているのではありません。
助けてもらったことに感謝を伝えれば(少なくとも感謝の気持ちを持てば)徳を積めるのにもったいなという話を書いています。
助けられても恐縮したり気に病む必要はありませんが、感謝の気持ちを持たないのとは別の問題です。
なにか良い行動に対し良い気持ちを返せば場の空気も良くなります。また良い行動をしようと思ってもらえて、良い機会にも出逢いやすくなります。
カルマが溜まったことで負のループに陥っていたとします。
例)
- 現在苦しい(仕事が上手くいかないなど)
- 苦しみから逃れたいという気持ちが生まれる
- 逃げるため快楽に走る(自暴自棄にお酒・タバコ・ドラッグなど)
- 急速に徳が減る(快楽の現実化は徳を消費する)
- 依存し体を痛めつけているためどんどんカルマが増える
- 徳が少ないのでさらに苦しみが生まれる
- 快楽へ走りカルマを増やす
こうしてどんどん状況が悪化しカルマが溜まっている状態でも、何か助けてもらって感謝が出来るなら悪循環から抜け出すトリガーになる可能性が出てきます。
まとめ
- 助けられる側の役割は、助けた側のメンタル安定と徳を積む場を作ること
- 助けても感謝を求めてはいけない、助けられても感謝しなくて良いという考えは役割を否定する