こんにちは。くまの(Kumano@Rpgmg)です。
音楽について色々と考える機会があり、考え過ぎて白昼夢を見るような2週間を過ごしていました。
そんな中で私が思い至った、私が急にある音に冷めたり急にハマったりする理由をまとめてみました。なので、あくまでも私個人の感想であることをご留意ください。
とにかく音楽が好きです。
Thrash /Death Metal/Grindcoreを筆頭に、GABBAなどのhardcore techno、ただの騒音とさえ言われるNoise music、classicならリストの超絶技巧練習曲で名の知れたボリス・ベレゾフスキー、Hardcore punkやMelodic hardcoreも大好物です。Shoegazerも聴きます。
全部早いか激しいかうるさいかのどれかではないかと思われそうですが、親元で養われていた時代地獄を見続けていた時、初めて心救われた音楽がThrash Metalで、煩い音楽にハマっています。
(最後のまとめに公式Youtubeのリンクを貼ります)
私が考える「昔は良かった/昔よりかっこ良い」曲の違い
音楽を始め、何かを表現することは「自分の内面」の表現だと思っています。
(「自分の表現」として書いているわけではないこのブログでも言葉から内面は出ると心得ています)
私が思う良い表現は、いかに内面と表現が一致しているか、です。歌詞もそうです。いかに立派な歌詞が歌われも、本人の内面と一致していないのなら別にその人が歌う必要はないと思っています。
分かりやすい例を書くと、世界を憎んで憎んで燃やす尽くしたいと思っているのに愛で世界を救うんだと表現しても、内面とは違います。
そんな綺麗ごとを聞くくらいなら、どす黒い気持ちを表現した方が「純粋な黒」でよっぽど綺麗なものに感じます。
昔は良かった、昔の曲のほうがかっこ良かったのにと言われるアーティストの作品のイメージとして、売れ線狙いになった、曲がキャッチーで聴きやすくなった、昔のハングリー精神を忘れた、ステージと客に距離を感じる、などがあるかもしれません。
ですが私が思う「昔は良かった」は、これらの理由とは無縁なものです。
売れ線狙い風になっても、よりかっこ良くなる音もあります。
ボーカルがメロディアスで聴きやすい人に変わっても、より魅力的に感じる音もあります。
ハングリーさ全開の音からまとまりのある音に変化しても、より心に響く音もあります。
ズテージと客席の距離が開いても、客席を飲み込むほどの感覚があります。
私が思う、昔の方が良かった音は
音楽を続けていく内に、無意識と意識を遮断したもので
昔よりもかっこ良くなった音は
音楽を続けながら、自分の内面・無意識と向き合い何かを見出したもの、です。(表現をより自分の望むものに近づけるために技術や手法を学んでいくものなら最高です)
無意識の深い部分は魂にも繋がっていて、音を通じてそこに触れた時はその音のことしか考えられなくなるレベルでハマります。
音楽を続けていても、無意識と向き合うのか遮断するのかに分かれる理由について下に書いていきます。
無意識を遮断するか向き合うか?
無意識と向き合うつもりでも遮断している時
以前、自分の殻を破るという記事で、殻を破る行動をしても
- 無意識を抑圧する
- より深く無意識を知る
の、2通りに分かれるという話を書きました。
「自分の殻を破って勇気を持てるようにするんだ」と思って、思い切って勇気ある行動をする時
- 恥ずかしい
- 嫌だ、やりたくない
という気持ちを無視して無理をした場合、嫌だ、恥ずかしいという気持ちを無意識に抑圧します。これは勇気を持てたのではなく、恥を無意識に閉じ込め遮断し、鈍感になっただけのことです。
このような形で、無意識を遮断していることに気が付かず、成長して乗り越えたという勘違いも多くあります。
意外に思われるかもしれませんが、瞑想も無意識と向き合うものと遮断するものに分かれます。
簡単に書くと、
- 自力で家などで行う、集中力によって瞑想状態になるものが、無意識と向き合う瞑想
- 教室などで習う中で音楽やイメージ、氣の操作を利用して行うものが無意識を遮断する瞑想
です。
イメージでは、内面・無意識そのものを見ることが出来ません。本格的なビバッサナー瞑想なら、呼吸の時に息が入ってくる感覚さえイメージ化するのを禁止します。
極端な例ですが、ある有名な某新興宗教は、チャクラの瞑想で無意識と意識を遮断しました。その結果、宗教の為なら人を殺めても良いという洗脳の助けにもなっています。(無意識と意識が遮断されれば洗脳も容易になります)
ただ、無意識と意識の遮断が悪いのかと言えば、案外そうでもありません。人には鈍感力が必要と言われています。
無意識の遮断のメリット・デメリット
メリット
敏感過ぎる・繊細過ぎると生きづらくなります。
何かを感じ取るのには心のエネルギーを使います。良い物を感じ取るなら、感じ取ったものから良い影響を受けますが、悪いものなら、エネルギーを使った上にストレスが溜まります。
感じ取り過ぎて疲れる場合は、少し感度が鈍った方が疲れにくくなります。
無意識の中には抑圧された(自分にとって)嫌な感情があります。その嫌なものと距離が取れれば、インスタントに人格者になれます。
無意識としっかり向き合っていては生きにくい世の中なので、無意識を遮断したほうが生きやすく、世間受けもよくなります。
デメリット
自分は何か?が分からなくなります。
奇を衒(てら)っても、個性を出そうとしても、唯一無二の自分が存在する無意識と遮断されているので、本来の「らしさ」「個性」は出せません。
言い換えれば、どんなに地味に大人しくしていても無意識としっかり繋がっていれば、意識しなくても自動的に個性が発揮できます。
世の中を無難に生きていくことが目標なら問題はありませんが、生きていく意味を探し、自分だけしか出来ないこと(目立つことや大きな事とは限りません)をやりたいなら、無意識と意識が遮断されているのはデメリットです。
「昔は良かった」「昔よりかっこ良い」の音楽の違いへの考察
昔に比べて無意識への向き合い方が深いかどうか
最初に表現している無意識の深さよりも、浅くなるか深くなるかが、昔は良かった/昔よりかっこいいの違いに感じています。
「無意識にまかせればすべては上手くいく」から、当然な話です。
その音楽を好きになる要因の1つに、無意識との関りが自分と同じくらい、というものがあります。浅ければあまり魅力を感じません。
自分が理解できる範囲内で(←重要)自分よりも深ければ凄い!深い!と感動します。
なので、浅くなればつまらなく感じるし、深くなればさらに魅力を感じます。
私が思う無意識を遮断する音楽とは
無意識を遮断する音楽に進む理由は、
- 逃げ
- 妥協
- 折り合い
の3つではないかと考察します。
逃げ
見栄を張りたい、自分のダメさから逃げたいと思うパターンです。
自分の無意識を抑圧した時に、楽だと感じた場合にこの方向性に進むと思われます。
自分の望むように進もうとしても上手くいかない、でも自分の想いとは違うことをしてみて、対人的な意味で見栄を張れた、自分がやっていることは有意義だと言い訳が出来たなど、自分のプライドが保たれたと感じた時に
無意識を遮断してでも幸せなふりをしたい場合は逃げになります。
妥協
無意識と対峙し素直に表現しても受け入れられないものがあります。道徳的にNGなものにもなり得ます。
それでも表現を続けたければ、
- 受け入れられる、世に出してもOKなレベルまで妥協する
- 受け入れられるものに形を変える・昇華させる
の2つの道があります。1.を選べば妥協になります。
折り合い
無意識と向き合うといっても、無意識は無限で完全に向き合うのは不可能です。
人によってどれだけ向き合っているか、受け入れているかには差があります。
音楽として心地よく感じるのは、自分と同じくらいの無意識との向き合い、もしくはもう少しだけ深く向き合っていて気付きや勇気を貰えるようなものが多いと思われます。
なので平均的な深さくらいまでの無意識の表現の方が反応も得やすく世間受けも良くなります。
表現者側は実際にはもっと深く対峙出来るのに、あえてそれよりも少し浅い部分を表現していることがあります。
それぐらいのほうが、はっきりと強くかつ良い形で向き合えるので表現としても感覚が安定するためです。
売れている音楽だから無意識との関りが浅いという意味ではありません。
まとめ
私が初めて「音楽で救われた」と思った曲です。
サンフランシスコのThrash Metal、EXODUS(エクソダス)というバンドのImpact is Imminentです。
0:37~のギターのイントロを聴いた瞬間から私の世界は変わりました。